老年期は人生のしめくくり
私たち一人ひとりの人生は、かけがえのない一度きりの物語です。幼少期の遊びや学び、青年期の夢や葛藤、働き盛りの時期の挑戦や苦労、家庭や地域での役割、つながり――それらすべてが、その人の人生を一つの物語のように形づくっていきます。
老年期はその集大成であり、「人生のしめくくり」と呼ばれる大切な時期です。身体の機能は少しずつ衰え、歩く速さがゆっくりになったり、力が思うように入らなくなったり、記憶が曖昧になることもあるでしょう。しかし、長い年月を生きてきたからこそ得られる「視野の広さ」や「人とのつながりの深さ」もまた、この時期ならではの豊かさだと言えます。
介護や医療の現場で日々接する高齢者の姿は、その人の歩んできた人生物語を映し出しています。老年期をただ「衰退の時期」ととらえるのではなく、「人生をまとめ、豊かに仕上げていく時期」と考えることで、私たちはその人のかけがえのない人生をより深く理解できるのではないでしょうか。
幸せに生きるために道しるべ ~エリクソンのライフサイクル論~
アメリカの心理学者エリク・H・エリクソンは、人の発達を「乳児期から老年期までの8つの段階」に分け、それぞれに課題があると考えました。これが「ライフサイクル論」と呼ばれる考え方です。
乳児期には「基本的信頼」を育むこと、青年期には「自分らしさ=アイデンティティ」を確立することなどが課題とされます。そして老年期の課題は「統合」で、自分の人生を振り返り、受け入れ、「良い人生だった」と納得できる感覚をもつことです。
エリクソンの理論は、単なる心理学的な理論ではなく、「人が幸せに生きるための道しるべ」となります。人は誰でも年齢とともに変化に直面していきます。その変化を「衰え」や「喪失」とだけ受け止めるのではなく、「次の段階に進む(発達する)ための課題」ととらえると、人生の新たな意味を見出すことができます。
介護現場においても、エリクソンの視点は大切だと考えます。それは高齢者の方が、今どのような人生の課題に向き合っているのかを理解することは、その人の心、その人の人生に寄り添う手がかりになるからです。
老年期の課題 ~統合と絶望 そして英知の獲得~
エリクソンによれば、老年期の課題は「統合」と「絶望」という二つの心の対立に直面します。
【統合】 … 自分の人生を振り返り、「よく生きてきた」と納得できる感覚。失敗や後悔も含めて受け入れ、自分の物語としてまとめられること。
【絶望】 … 「もっとこうすればよかった」「自分の人生は意味がなかった」と、後悔や虚無感・孤独感に支配される感覚。
どちらに傾くかは、その人が積み重ねてきた人生の意味づけや、今をどう生きているかに左右されます。
●奥様の思いと共に生きるAさんの事例
ある施設で出会った80代のAさんは、病気で身体が不自由になり入所されました。毎日歩行練習を続け、いつも職員に朗らかに挨拶をしてくださっています。
2年前、愛する奥様を白血病で亡くされ、一人暮らしをされていた時期がありました。そんなAさんがリハビリの時に語られた言葉が忘れられません。
「小山さん、私ね——不思議と死ぬことが全く怖くないんですよ。どうして今こうして頑張れるのか…。それはね、妻が亡くなる直前にこう言ってくれたんです。
『私の分まで、幸せに生きてね』
その言葉が、今も心に響いているんです。だから私は、もう孤独でもなく、恐怖でもなく…“妻と一緒に生きている”ように感じながら、日々感謝して生きているんです。」
このAさんの姿は、まさに「統合」を象徴していると思います。深い悲しみを抱えながらも、それを人生の一部として受け入れ、感謝を持って生きる。その先にあるのが、エリクソンのいう「英知(wisdom)」です。英知とは、人生の喜びも悲しみも含めて受けとめ、次の世代や周囲の人に温かく寄り添う心の在り方です。Aさんの言葉には、まさにその心の深さと広がりがあるように感じました。
人生に感謝できるかが問われる
老年期における統合の核心には「感謝」があります。
現実には、健康を損ねたり、大切な人を失ったり、経済的不安に直面することもあります。しかしそれでも、身近な出会いや日常の出来事に感謝できる人は、「自分の人生は良いものだった」と思えるようになります。
介護の現場をみても、「ありがとう」と口にする方は、心に穏やかさを持ち、周囲との関係も温かく保たれています。反対に「自分ばかりが不幸だ」と嘆き続けると、孤独感が強まり「絶望」に傾いてしまいます。
●サンクスカードの活動が教えてくれたこと
私は施設で「サンクスカード」というカードで感謝を伝える活動を続けています。職員や利用者様に感謝の気持ちをカードに書いて渡す取り組みです。
これまで投函されてきたサンクスカードの内容を分析してみると、最初は職員間でのやりとりが中心でしたが、やがて利用者様への感謝が増えていきました。そこにはこんな言葉が並んでいました。
「笑顔でお話ししてくれてありがとうございます。私も元気になりました!」
「いつも有り難うって言って下さりありがとうございます。私も嬉しい気持ちになりました!」
「『がんばってね』って声をかけてくださりありがとうございました。お陰で前向きな気持ちになりました!」
これらは「物質的な利益」に対する感謝ではなく、「感情的な利益」に対する感謝です。つまり、支援する側が一方的に与えるのではなく、支援を通じて自分も感謝の気持ちを抱き「共に幸せを感じている」ということです。
感謝を伝えることは、一方通行ではなく双方向の関係を育みます。相手に伝えた「ありがとう」が、自分の心も満たし、組織や地域全体を温かくしていく。そしてその積み重ねが、老年期の「統合」を支える力となるのです。
おわりに
老年期は、かけがえのない人生の総まとめの時期です。身体の衰えや喪失体験を避けることはできませんが、その中にこそ「自分の人生を統合し、英知を獲得する」という深い意味があります。
その鍵となるのが「感謝」です。人生をありのままに受けとめ、「ありがとう」と言える人は、老年期を幸せに生きることができます。その姿は次の世代にも大きな学びを与え、より豊かなつがなり・関わり合いを生み出すことでしょう。
私たち介護に携わる人は、その人が「自分の人生を誇りに思える時間」を過ごせるように寄り添い、感謝し、ともに人生を歩むパートナーとして関わっていくことが大切なのではないでしょうか。